2013年4月16日火曜日

仏教を宗教にしたかった人たち


空海の風景〈上〉 (中公文庫) 司馬 遼太郎
最澄と空海は、仏教を宗教にしたかったようだ。

それ以前は何だったか?
南都六宗が存在感を示していた時代、仏教は単に学問だった。
僧と呼ばれる一部の学者が、インド哲学を中国の言語と解釈を通して学んでいるだけのものだった。

最初に挙げた2人の人物は、その仏教を学ぶ中で、ごく一部の人たちだけの独占ではなくて、一般の人たちに影響を与えられるもの、つまり「救い」になり得るものにできる可能性を見出し、そうしようと行動した。

しかしながら、2人のアプローチの仕方はまったく違っていた。

最澄の場合は、いってみれば偶然に世に見出された。
修行の地としていた比叡山が、新しく造営された首都 平安京、京都盆地の北東、占術の判断による「鬼門」つまり不吉なものが入り込んでくる方角に位置していたために、都を守るようにという国家からの守りとするように命じられ、彼の立場が国によって保護されることになった。
 宗教的な立場を確立するために、「天台」という仏教の一教理を日本にも導入する動きに出るが、残念ながら、世に認めれる宗教という視点からは主たるものではなかったように思われる。

空海は、密教という、中国と通してではなく、直接インドの哲学や儀式を導入しようとする。
それまで日本にも断片的に密教的なものは入り込んできていた。しかし彼は体系的に取り入れて、根付かせようとしたようだ。
信じて従えば、現世利益、すぐに効果のある(少なくても、そう期待させる)儀式はその中の大きなものだ。

日本人は宗教的にわかりにくい。
それぞれの道でまっすぐに進んでいってくれていたら、話はわかりやすかったのだが、
2人(2つ)はお互いの"よいところ"を自分の宗教に取り入れようとする。
 現代にもその痕跡がそれぞれに見られる。

 ○比叡山延暦寺で行われていて、年末から年明けにTV放映されている護摩焚き。あれはもともと天台の教理にはなくて、密教から取り入れたもの。

 ○高野山金剛峰寺に見られるのは、「女人禁制」。空海は、密教を通して、性に関してはだいぶおおらかに捉えていたようだ。おそらく後々になって取り入れられたものだろう。ひょっとしたら、この決まりごとを空海は嘆いているかも??


まだ読んでいる途中で書いてしまっている。
ただ、その辺りまでの大まかな捉え方としては、今まで自身考えてきたことと照らし合わせて間違いないと結論付けて書かせてもらった。

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