2012年3月31日土曜日
2012年3月27日火曜日
1日で何歩歩くか?
ケータイ電話に万歩計が付くようになったとは、しばらく前に聞いていたが、実際自分ので使えるようになったので、昨日計ってみた。
結果…16000歩余り。
1日の目標10000歩とよく聞くが、仕事で歩いたらそれは楽勝みたい。
ちなみに、家から最寄り駅までは千歩ちょっと。
自分の足腰で歩くなんて、生きている限り当然だけど、身体の正常を保つためにも必要で、歩けることで身体が機能していることを確認できる、ということかもしれない。ただ、この確認のために、ケータイの機能を使うとはどういうことか?
従来の万歩計みたく振動によってだけで計ってるのかな?でも初期設定で身長を入力して歩幅を割り出したり、家の中で持って歩いても加算されていかなかったり。やはり何か複雑な仕組みを使っているのだろうか。いづれにせよ、しばらく使ってみよう。
日常の時間で唯一できている運動だから、どのくらいできているか目で確認できるのはありがたいこと。
どうせなら、排煙漂う幹線道路ではなくて、空気のおいしい公園をたくさん歩ければ…とは今は贅沢な望みだが。
結果…16000歩余り。
1日の目標10000歩とよく聞くが、仕事で歩いたらそれは楽勝みたい。
ちなみに、家から最寄り駅までは千歩ちょっと。
自分の足腰で歩くなんて、生きている限り当然だけど、身体の正常を保つためにも必要で、歩けることで身体が機能していることを確認できる、ということかもしれない。ただ、この確認のために、ケータイの機能を使うとはどういうことか?
従来の万歩計みたく振動によってだけで計ってるのかな?でも初期設定で身長を入力して歩幅を割り出したり、家の中で持って歩いても加算されていかなかったり。やはり何か複雑な仕組みを使っているのだろうか。いづれにせよ、しばらく使ってみよう。
日常の時間で唯一できている運動だから、どのくらいできているか目で確認できるのはありがたいこと。
どうせなら、排煙漂う幹線道路ではなくて、空気のおいしい公園をたくさん歩ければ…とは今は贅沢な望みだが。
2012年3月17日土曜日
本来のブッダの狙いはなんだったか?
電子書籍の試し読みで、仏教関係のものを幾つか読んでみた。
⇒電子書籍はこちら
率直な感想としては、生活に役立てて、人となりを形成するためのよりどころとして、 仏教は各論過ぎる、ということ。 これをひとつひとつ追っかけていくことは、不可能に近いのではないか。
実際にやっていこうと思ったら、つまりブッダが教えてくれる道を歩もうと思ったら、 それこそ出家して仏門に入って、専心する他にない。 これは何も仏教だけではない。いはゆるキリスト教にも修道士・修道女がいるし、 巫女やら祭司やら、儀式を執行するためには、そのために人生を捧げている人でないといけない、 と規定している宗教は多いのではないか。
ただ、そのやり方だと、変に組織立ってきたり、権力が生まれてきたり、利権が発生したり、 純粋な信仰という本来の目的から離れていくことも往々にしてある。
ひとつ勝手な結論を言えば、殊日本においては、仏教は奈良時代の頃の学問としての仏教に留まっているべきだった。 それであれば、学者(僧侶)だけのものであればよく、どれだけ小難しく複雑にしようが一般社会にはさしたる影響はない。 これは塩野七生さんが指摘していたように記憶しているが、「葬式仏教」になった時からその存在意義ははっきりしないものになってしまった。
もうひとつ勝手な結論としては、サンスクリット語(シーア語?)で弟子たちによって書かれたブッダの教えがそのまま広まったらよかった。 中国に伝えられてから、漢字で翻訳され、しかも"お経"という形に作り変えられて(これも日本でか?)、 日本語という音の数が極端に少なくなる言語で読まれたときに、なんとも平板な無味乾燥な響きのものになってしまった。
そんなことを書きながら、これから空海を読もうとしている。。。
率直な感想としては、生活に役立てて、人となりを形成するためのよりどころとして、 仏教は各論過ぎる、ということ。 これをひとつひとつ追っかけていくことは、不可能に近いのではないか。
実際にやっていこうと思ったら、つまりブッダが教えてくれる道を歩もうと思ったら、 それこそ出家して仏門に入って、専心する他にない。 これは何も仏教だけではない。いはゆるキリスト教にも修道士・修道女がいるし、 巫女やら祭司やら、儀式を執行するためには、そのために人生を捧げている人でないといけない、 と規定している宗教は多いのではないか。
ただ、そのやり方だと、変に組織立ってきたり、権力が生まれてきたり、利権が発生したり、 純粋な信仰という本来の目的から離れていくことも往々にしてある。
ひとつ勝手な結論を言えば、殊日本においては、仏教は奈良時代の頃の学問としての仏教に留まっているべきだった。 それであれば、学者(僧侶)だけのものであればよく、どれだけ小難しく複雑にしようが一般社会にはさしたる影響はない。 これは塩野七生さんが指摘していたように記憶しているが、「葬式仏教」になった時からその存在意義ははっきりしないものになってしまった。
もうひとつ勝手な結論としては、サンスクリット語(シーア語?)で弟子たちによって書かれたブッダの教えがそのまま広まったらよかった。 中国に伝えられてから、漢字で翻訳され、しかも"お経"という形に作り変えられて(これも日本でか?)、 日本語という音の数が極端に少なくなる言語で読まれたときに、なんとも平板な無味乾燥な響きのものになってしまった。
そんなことを書きながら、これから空海を読もうとしている。。。
2012年3月1日木曜日
2012年2月15日水曜日
自分で観る
「わしにはもう教えることはない」と老人は云った、「あとはおぬしの努力ひとつだ、もう少しいっしょにいて助言したいが、おぬしにはその必要はないと思う、ただ繰り返して云うが観ることを忘れぬように、いいか、自分の勘にたよってはならない、理論や他人の説にたよってもならない、自分の経験にもたよるな、大切なのは現実に観ることだ、自分の眼で、感覚で、そこにあるものを観、そこにあるものをつかむことだ」直接は天文学について言っているところ。 世の中全般について、現実を見て、真実も以て判断するのは、相当な至難。 塩野七生さんの指摘のように「人は自分が見たい現実しか見ない」のが常だから。
2012年1月25日水曜日
2012年1月16日月曜日
2012年1月11日水曜日
2012年1月10日火曜日
2011年12月31日土曜日
希望という名の光 the light named "HOPE"
2回か3回くらいこの曲が流れてきた。
1年を振り返ると、公にも個人的にもやっぱり地震の影響があって、
そこから立ち上がり、元の生活に戻そうと、前進しようとするときに、
音楽から励ましと前への推進力をもらったのは間違いない。
あと、この曲も。
2011年12月21日水曜日
書籍の電子化は是か非か
という議論。
一つ言いたいことは、単行本のハードカバーが多いことと、モルモン書もそうだけど紙質が良すぎること、あれは無駄!
活字中毒なる症状があるけど、本を読むことと蔵書することが目的になっているのも何か違う。
書籍電子化のメリットでいいと思ったのは、
1.紙代とデータ化費用なら、データが割安だろう。印税は割合で決められるだろうけど、それで激減はしないんじゃない?
2.OCRをかけることで70%くらいの完成度にせよ、全文検索ができて、相互参照しやす。
3.何冊持ち歩いても、ほぼ重さが変わらない。問題は、データゆえの交換のしやすさで不正が起こりやすいことかな。
紙の感触や装丁のよさは好きなんだけどね。
一つ言いたいことは、単行本のハードカバーが多いことと、モルモン書もそうだけど紙質が良すぎること、あれは無駄!
活字中毒なる症状があるけど、本を読むことと蔵書することが目的になっているのも何か違う。
書籍電子化のメリットでいいと思ったのは、
1.紙代とデータ化費用なら、データが割安だろう。印税は割合で決められるだろうけど、それで激減はしないんじゃない?
2.OCRをかけることで70%くらいの完成度にせよ、全文検索ができて、相互参照しやす。
3.何冊持ち歩いても、ほぼ重さが変わらない。問題は、データゆえの交換のしやすさで不正が起こりやすいことかな。
紙の感触や装丁のよさは好きなんだけどね。
2011年12月19日月曜日
2011年12月17日土曜日
音が抜ける気持ちよさ
金曜は、子どもの通う幼稚園のクリスマスコンサートだった。
幼稚園児は年少さんも年中さんも、そして年長さんも 合唱に合奏にみんな頑張っていた。
そしてフィナーレは、まず年長さんにその父兄(主にお母さんたち)を加え、
さらに最終コーラスは会場全体を巻き込んだ「歓びの歌」の合唱。
伴奏は合唱やピアノ指導専門の2人の先生が連弾、なかなかの迫力だった。
会場全体の時に自分も一緒に歌ったんだけど、
声が上の方に抜けていくのがわかって、とても気持ち良かった。
定員数百程度のホールだったけど、 音響のいい場所で音楽をやるのは、いやーいい。
やっぱりいつか、近い将来に、 ”1万人で歌う第九”やヘンデル「メサイヤ」の通しに参加したいものだ。 できるかな~。
幼稚園児は年少さんも年中さんも、そして年長さんも 合唱に合奏にみんな頑張っていた。
そしてフィナーレは、まず年長さんにその父兄(主にお母さんたち)を加え、
さらに最終コーラスは会場全体を巻き込んだ「歓びの歌」の合唱。
伴奏は合唱やピアノ指導専門の2人の先生が連弾、なかなかの迫力だった。
会場全体の時に自分も一緒に歌ったんだけど、
声が上の方に抜けていくのがわかって、とても気持ち良かった。
定員数百程度のホールだったけど、 音響のいい場所で音楽をやるのは、いやーいい。
やっぱりいつか、近い将来に、 ”1万人で歌う第九”やヘンデル「メサイヤ」の通しに参加したいものだ。 できるかな~。
2011年12月12日月曜日
世界を知らないと
2011年12月10日土曜日
人を描く
「たっすいより、いちびりがええきに」 なにを言っても張り合いのないこどもよりは、お調子者でも威勢のいい子のほうがはるかにいい(66頁)ちゃんと覚えている情報ではないけど、 司馬遼太郎『龍馬がいく』よりも、 龍馬と慎太郎が、それぞれ1人の少年として何をして、どうやって育っていったかが、 一力さんの職人を描くやわらかいタッチで丁寧に書かれている印象。 歴史の流れというよりも、1人の人となりを描き出そうとしているのかなと。 続きが楽しみだ。
2011年12月8日木曜日
乾燥が顕れるところ
冬の時期、空気がカラカラに乾くと、
その乾燥が如実に顕れてくるのは、鼻の穴の内側。
粘膜全体が乾いてヒビが入っていくような。
粘膜が弱い人だけなのか??
他の人たちはそんなことはないのかな??
うらやましい。
2011年12月7日水曜日
自立して、責任を取るということ
今週読んだ本たち。
まずは友人から「ぜひ読んで!」貸してもらった。
次に、しばらく前にお客さんと話していて、やっぱり読まないと思い、やっと読み切った。
結局、自分で考えて、決めて、行動して、そして自分で責任を取る。
逆を返すと、責任を取れるところで(責任を取れる範囲を広げながら)、動けるだけ動く。
まずは友人から「ぜひ読んで!」貸してもらった。
次に、しばらく前にお客さんと話していて、やっぱり読まないと思い、やっと読み切った。
逆を返すと、責任を取れるところで(責任を取れる範囲を広げながら)、動けるだけ動く。
2011年11月27日日曜日
日本の国と人が死ぬ前に
革命のもう1冊。古賀茂明『官僚の責任』
これには、もはや言い古されたことだが、英語教育を早急に変える必要があるだろう。それだけに、文科省の責任が今後ますます大きくなると思う。「英語はネイティブの教師を必ず採用する」とか、「高校や大学の入学試験の英語は、ネイティブとのディスカッションのみにする」といった思いきった改革が必要だろう。この本の中で恐らくいちばんわかりやすい議論かと思い引用したが、 議論はこんな程度ではない。 国家公務員、いわゆる官僚、そしてもっと大きな枠での役人(もちろん公立学校の教師も含む)は、 国益や地方公共団体の利益を考えて仕事をしていない。
「いや、そんなことをすると、先生が困りますから」
文科省は必ずそう言うだろう。そして、日教組が反対するにちがいない。外国人教師を雇用すると、じつは対して英語をしゃべれない日本人英語教師の権威がガタ落ちになるからだ。
だが、教育は教師のためにあるのか?(203~204頁)
では何のために存在しているかというと、自分たちの所属する組織の利益、省益のため。 隠しようのくらい、自分たちの保身と既得権益を求める人たちの集まりに成り下がっている。 結果として、本来目的とすべきものは完全に見えてないか、意識的に見ないようにしているとしか思えない。
何でこんな人たちに、我々の安全保障や公共サービスを任せてきたんだ。 利益・儲けだけを考えて、商売をしている民間企業の方が、どれほど純粋で社会の役に立っていることか。 (自然環境や人間社会を顧みず、公害を巻き起こすような組織はもちろん除いて)
この社会に生きる人間としてできること。
経済的にも、精神的にも、個人として家族としても自立しよう。
公共団体の世話にならなくてもいいように。
目の前の生活費も困らないように、老後の無収入の状態は作らないように。
できるだけ病院の世話にならないように、死ぬ直前までバリバリ元気に生きて、
ポックリ死にたい。
どうだろうか??
苦と楽、どちらに耐えれるか
『世に棲む日日』の続き。
[慶応元年 長州藩内クーデター成功後]
●モノがないことには耐えれても、有り余る中で本来の姿を保つことは、人間難しいんだろう。
[慶応元年 長州藩内クーデター成功後]
「艱難ヲトモニスベク、富貴ヲトモニスベカラズ」 と晋作がいったのは、この情景のすさまじさをみて言ったのであろう。人間の群れは、そういうものであった。事をなすべく目標を鋭く持ち、それにむかって生死を誓いつつ突き進んでいるときは、どの人間の姿も美しい。が、ひとたび成功し、集団として目標をうしなってしまえば、そのエネルギーは仲間同士の葛藤にむけられる。(第4巻 138頁)●目標達成に向かって一心にがんばることは大事なこと。でも、その目標達成後にも流れがあるなら、集団・組織であれば、そこをその後までを見通す目と方向性を持つ人間はいないといけない。でないと、いわゆる「燃え尽き症候群」だったり、逆にエネルギーも持て余した末の暴走を招く。
●モノがないことには耐えれても、有り余る中で本来の姿を保つことは、人間難しいんだろう。
2011年11月21日月曜日
劇薬なのでご注意を
われわれは日本人―ことにその奇妙さと聡明さとその情念―を知ろうとおもえば、幕末における長州藩をこまかく知ることが必要であろう。この藩―つまり一藩をあげて思想団体になってしまったようなこの藩―が、髪も大童の狂気と活動を示してくれたおかげで、日本人とはなにものであるかということを知るための歴史的大実験をおこなうことができた。日本史における長州藩の役割は、その大実験であったといっていい(かれらは維新政府をつくる主役になりえたが、それはかれらの功績ではなく、歴史のひろい場からみれば単なる後日談にすぎず、それだけにすぎず、あるいはまぐれあたりかもしれず、要するにかれらはひどく活動的であったために歴史の実験台のひとびとたる運命をになったにすぎない。かれらの壮烈さもおかしさも、そこにあるであろう。)(世に棲む日日(三)144頁)この本は革命を題材にしている。 人の世に動乱を起こした人、その動乱に巻き込まれた人を描いている。 なので、この本を読むと何らかの形で主体にならないといけない衝動に、 つまり自分や周りを変えるために、何らかの行動を取らないといけない衝動に駆られる可能性が高い。 その衝動たるや、今までやってきたことをもっと徹底的にやろうというレベルならまだしも、 ひょっとしたらそれまで思いも寄らない、突拍子もない、過激な行動を取ることになることが結構あり得る。 特に日本人にとって、 そして「明治維新」"Meiji Revolution"を帝国主義に屈せず独立を保った、唯一の運動と標榜する人たち(アジア各地などでそう捉えていることが意外と多いらしい)にとって、 現実をしっかりと見つめながら、変えるべき社会の仕組みを変えていく動機づけになる本かもしれない。 。。。などと勝手に燃えてしまった。 つまり、この本は劇薬ですので、自分の心構えをしっかりともって開かないといけない。
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