約2年前に智を裏うちする情 という記事を書いた。
聖書にも同じような概念があるのを友人から教えてもらった。
だから、あなたがたも、霊の賜物を熱心に求めている以上は、教会の徳を高めるために、それを豊かにいただくように励むがよい。
このようなわけであるから、異言を語る者は、自分でそれを解くことができるように祈りなさい。
もしわたしが異言をもって祈るなら、わたしの霊は祈るが、知性は実を結ばないからである。
すると、どうしたらよいのか。わたしは霊で祈ると共に、知性でも祈ろう。霊でさんびを歌うと共に、知性でも歌おう。
(新約聖書 コリント人への第1の手紙 14章12~15節)
言語の習得も、やっぱり気持ちと思考の両方がバランスよく働くときに、
つまり「学びたい」「ハリウッド映画を字幕に頼らず見たい」という気持ちと同時に、
学習計画を立てていろいろな困難を排してコツコツ勉強し続ける思考が、
両方とも1人の人の中でわーっと動くときに、とても身に付くのだろう。
さらに、挙げているのは、祈りも、そして音楽も、
同じように智と情、つまり知性と感性が左右の両輪になって転がっていくとき、
効果的になったり、上達したりする。
特に音楽は、100%近く感性に寄るもの、つまり完全に芸術分野のものと思いきや、
数学や物理の学者・愛好家が好むことが多いらしい。
譜面上の論理が働くということでしょう。
0 件のコメント:
コメントを投稿