2010年12月27日月曜日


わが友マキアヴェッリ―フィレンツェ存亡〈1〉 (新潮文庫)

ヴェネツィアの次はフィレンツェ。
塩野七生の世界にどっぷりだね。


 現代イタリアに、イタリア古文の現代語訳というものは存在しない。ために、私も、日本人から、五百年も昔の史料を読むのは大変でしょう、と感心されるたびに、なんとも複雑な気分にさせられる。大変なのは、中世風に変型したラテン語や、現代イタリア語とは相当にちがうヴェネツィア方言の場合で、フィレンツェに関するかぎり、大変だなどと言ったら、イタリアの小学生に笑われるからである。
 現代イタリアの標準語は、フィレンツェやシエナを中心とするトスカーナ地方の、言ってみれば方言が、主体となってできている。ところが、このトスカーナ方言たるや、ダンテやボッカッチョやロレンツォやマキャヴェッリのおかげで、あの時代にすでに完成してしまっていて、それが今日まで引きつがれてきたというにすぎない。もちろん古めかしい言いまわしというものは、相当にある。だが、それも、「注」をつければ解決する程度のものである。つまり、日本人が思い浮かべるたぐいの古文ではない。(155~156頁)



「日本語が乱れている」なんてのは言い古されて久しい。
上に引用したイタリア語の状況を見ると、単なる言い訳・負け惜しみにしか思えない。

だれでもなれるワケではない"言葉の達人"・名作家を育て、
彼らが残した作品を大切にして、ちゃんと伝えていけるか。
他方では、言葉は人が作り使っていくものだから変わっていくもの。
この辺の間を取って、うまくやっていけば、嘆くような事態はないはず。

しかし、塩野さんはイタリアを愛しながら、
日本と日本語をとても大切に思っている、使命感を持っているなと。

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