2回か3回くらいこの曲が流れてきた。
1年を振り返ると、公にも個人的にもやっぱり地震の影響があって、
そこから立ち上がり、元の生活に戻そうと、前進しようとするときに、
音楽から励ましと前への推進力をもらったのは間違いない。
あと、この曲も。
「たっすいより、いちびりがええきに」 なにを言っても張り合いのないこどもよりは、お調子者でも威勢のいい子のほうがはるかにいい(66頁)ちゃんと覚えている情報ではないけど、 司馬遼太郎『龍馬がいく』よりも、 龍馬と慎太郎が、それぞれ1人の少年として何をして、どうやって育っていったかが、 一力さんの職人を描くやわらかいタッチで丁寧に書かれている印象。 歴史の流れというよりも、1人の人となりを描き出そうとしているのかなと。 続きが楽しみだ。
これには、もはや言い古されたことだが、英語教育を早急に変える必要があるだろう。それだけに、文科省の責任が今後ますます大きくなると思う。「英語はネイティブの教師を必ず採用する」とか、「高校や大学の入学試験の英語は、ネイティブとのディスカッションのみにする」といった思いきった改革が必要だろう。この本の中で恐らくいちばんわかりやすい議論かと思い引用したが、 議論はこんな程度ではない。 国家公務員、いわゆる官僚、そしてもっと大きな枠での役人(もちろん公立学校の教師も含む)は、 国益や地方公共団体の利益を考えて仕事をしていない。
「いや、そんなことをすると、先生が困りますから」
文科省は必ずそう言うだろう。そして、日教組が反対するにちがいない。外国人教師を雇用すると、じつは対して英語をしゃべれない日本人英語教師の権威がガタ落ちになるからだ。
だが、教育は教師のためにあるのか?(203~204頁)
「艱難ヲトモニスベク、富貴ヲトモニスベカラズ」 と晋作がいったのは、この情景のすさまじさをみて言ったのであろう。人間の群れは、そういうものであった。事をなすべく目標を鋭く持ち、それにむかって生死を誓いつつ突き進んでいるときは、どの人間の姿も美しい。が、ひとたび成功し、集団として目標をうしなってしまえば、そのエネルギーは仲間同士の葛藤にむけられる。(第4巻 138頁)●目標達成に向かって一心にがんばることは大事なこと。でも、その目標達成後にも流れがあるなら、集団・組織であれば、そこをその後までを見通す目と方向性を持つ人間はいないといけない。でないと、いわゆる「燃え尽き症候群」だったり、逆にエネルギーも持て余した末の暴走を招く。
われわれは日本人―ことにその奇妙さと聡明さとその情念―を知ろうとおもえば、幕末における長州藩をこまかく知ることが必要であろう。この藩―つまり一藩をあげて思想団体になってしまったようなこの藩―が、髪も大童の狂気と活動を示してくれたおかげで、日本人とはなにものであるかということを知るための歴史的大実験をおこなうことができた。日本史における長州藩の役割は、その大実験であったといっていい(かれらは維新政府をつくる主役になりえたが、それはかれらの功績ではなく、歴史のひろい場からみれば単なる後日談にすぎず、それだけにすぎず、あるいはまぐれあたりかもしれず、要するにかれらはひどく活動的であったために歴史の実験台のひとびとたる運命をになったにすぎない。かれらの壮烈さもおかしさも、そこにあるであろう。)(世に棲む日日(三)144頁)この本は革命を題材にしている。 人の世に動乱を起こした人、その動乱に巻き込まれた人を描いている。 なので、この本を読むと何らかの形で主体にならないといけない衝動に、 つまり自分や周りを変えるために、何らかの行動を取らないといけない衝動に駆られる可能性が高い。 その衝動たるや、今までやってきたことをもっと徹底的にやろうというレベルならまだしも、 ひょっとしたらそれまで思いも寄らない、突拍子もない、過激な行動を取ることになることが結構あり得る。 特に日本人にとって、 そして「明治維新」"Meiji Revolution"を帝国主義に屈せず独立を保った、唯一の運動と標榜する人たち(アジア各地などでそう捉えていることが意外と多いらしい)にとって、 現実をしっかりと見つめながら、変えるべき社会の仕組みを変えていく動機づけになる本かもしれない。 。。。などと勝手に燃えてしまった。 つまり、この本は劇薬ですので、自分の心構えをしっかりともって開かないといけない。
それは、肥料というものは、それが化学肥料であれ有機肥料であれ、リンゴの木に余分な栄養を与え、害虫を集めるひとつの原因になるということだ。肥料を与えれば、確かにリンゴの実は簡単に大きくなる。けれど、リンゴの木からすれば、安易に栄養が得られるために、地中に深く根を張り巡らせなくてもいいということになる。運動もロクにしないのに、食べ物ばかり豊富に与えられる子供のようなものだ。 現代の子供たちに、免疫系の疾患が増えていることは周知のことだが、肥料を与えすぎたリンゴの木にも似たことが起きるのではないか。その結果、自然の抵抗力を失い、農薬なしには、害虫や病気に勝つことができなくなるのではないかと木村は言う。(石川拓治『奇跡のリンゴ』 p.236)とても真摯なルポ。 農薬なしにリンゴを栽培することは今までの常識からすると、 今我々がおいしくいただいているリンゴが自然環境に対してとても弱すぎるために、 不可能と言われている。 その常識を打ち破ろうと、真正面から数十年にわたって奮闘してきた1軒の農家の話。 以下のようなことを考えた。 ①人間はもっと自然環境の中の一部であるという自覚と、 その中での存在意義をしっかり認識しないといけない ②そこから全く外れたことをやっていくと、自然も人間自身もバランスを崩して、よくない方向に進んでいく。 その積み重ねで、気づいた時には元に戻るのはとても難しくなる
[バーンスタイン]は能について話し始めた。 「能の面ちゅーのは、音楽や動作などのあり方によって変化するもんや。同じ顔をしていながら、まったく違う表情に見えることがある。それだけ何か力を秘めてるんやな。今の握手と同じで、見た目には静かな動きやのに、そこには膨大なエネルギーが秘められてる。オレの手は、確かにサドの発する熱を感じた。こうした特別な能力を日本人は生まれつき持ってるんや」(94頁)いわゆる自叙伝て、当然ながら自分で自分の人生に起こったこと・考えてきたことを書いていくので、 大抵の場合、狭いつながらりの中で読んでもらいたいのか?と言いたくなる。 この本にも、多少なりそういうところがある。 ただ、これだけ無名・コネなしのところから、結果を出してきたんだからすごい。 バースタイン・小澤征二という、すごい2人の後継者と呼べるような存在になっているんだから。 それにしても、指揮者というのはわからない職業だ。 音楽家なのに、舞台の上で音をいち音も鳴らさずに、 それでいて音楽への理解と思いを表現しようとするんだから。